皇室とのゆかり
門跡寺院は皇室や親王家、摂家の方が入寺されて住職を務められた寺院ですが、このうち法親王・入道親王を住職に迎えた門跡寺院は特に宮門跡と呼ばれ、十三ヶ寺のみが該当します。
聖護院もこの宮門跡の一つであり、その中でも皇子・皇孫が多く皇室より入寺されました。明治維新までの三十七代の門主のうち、二十五代の門主は皇室より、十二代の門主は摂家より入寺されています。
また御所が大火で焼失した天明八年(1788)と安政元年(1854)には、光格天皇ならびに孝明天皇が一時的に住居される「仮皇居」となり、その由緒から「聖護院旧仮皇居」として日本で唯一の仮皇居史跡に指定されています。
歴史ある建造物
現在の地に創建された聖護院の建物は、文明十九年(1487)に焼失。その後、寺は御所の付近(現在の烏丸今出川)に移転します。
しかし約二百年後の延宝三年(1675)の大火でその建物も全焼の憂き目に遭い、創建当初の旧地に伽藍を再建する事となって現在に至ります。
約五千坪の敷地には宸殿・本堂・書院・庫裡(くり)等が並び、仮皇居として用いられていた御座所や光格天皇の私室である一夜造りの学問所、愛用のお茶室など、由緒深い建物がかつての朝廷文化の風韻を漂わせています。
山門
聖護院が現在の地に再建された時に新造されたもので、門跡寺院を示す菊の紋を掲げています。三百年の時を経て、平成十二年に大修理されました。
大玄関
山門正面にある、宸殿の入り口。踏み入った部屋では、狩野永納、益信らによって描かれた老松の障壁画が見る者を圧倒します。
宸殿 <左>
宸殿は法親王が居住する門跡寺院の正殿です。書院造りの影響を強く受けつつ、寝殿造りの形式は残し、宮殿風に造られています。 天明八年(1788)に京都御所が焼失した折には、光格天皇の御座所として約三年間使用されました。
本堂 <右>
江戸時代とほぼ同じ外観で、昭和四十三年に建て替えられました。堂内には重要文化財の本尊・不動明王像等が祀られています。主な法要は宸殿で行われ、本堂は加行道場としての一面を持っています。
一夜造御学問所
聖護院を仮皇居と定めた光格天皇が私室として使用されたのが、この一夜造御学問所です。天皇のお越しに間に合わせるため、様々な技法を用い急いで建てられた事から「一夜造り」と呼ばれています。
亀山城主献納茶室
「天明の大火」時、禁裏警護の任にあった丹波亀山藩(現在の亀岡)亀岡城主平紀伊守信道が大火から避難された光格天皇や皇族関係者の警護にあたったことから、この茶室を光格天皇に献上しました。
聖護院の庭
白河砂が美しく輝く、宸殿前の南庭。
いくつか配置された石は枯山水を思わせますが、全て実用の意味があります。
毎年二月の節分会、六月の高祖会ではそれらの石も活用され、庭の中央で採燈大護摩供が厳修されます。
聖護院の庭園にたくさんの猫が!
かわいい猫の置物がお庭のあちこちに。
全部で8匹が隠されていますが、今後さらに増える予定もあります。
どこにいるのかぜひ探してみましょう!
金碧障壁画の世界
聖護院では格式に相応しい金碧(きんぺき)障壁画が非常に良い状態で残されており、約二百枚が院内各所を彩っています。これだけの数を一堂に眼にすることのできる建物は現在ではきわめて珍しく、大玄関から続く部屋のそれぞれで、製作当時そのままの作品世界を体験することができます。
大玄関 <狩野永納、益信筆>
山門正面の宸殿への入り口の襖絵。狩野永納・益信によって描かれた老松図。松は権力を象徴する植物であり、建物の玄関にしばしば描かれます。
孔雀之間 <狩野永納筆>
部屋に華やかさを表している孔雀は害虫や毒虫を食べるという譬えから、身の回りの災いを駆逐し、心の迷いを食べつくす吉祥の鳥として描かれてきました。
太公望之間 <狩野永納筆>
太公望之間には、西、北、東の三面に異なる物語が展開されています。北面の障壁画には東晋・宗の詩人である「陶淵明」と、彼が好んだ菊・柳を配した門前に家人が出迎えている場面が描かれています。